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倜儻不羈ということば [ことば]

由とは、頂きに立つさびしさのことである。
 むろん一人で立つ。
 自由を、自らのに押しとどめることも、厭わずただ楽しむ。
 かつ、心からそれでいいとしなければならない。
 これもまた、自分の顔に責任を持つということである。

 ときに、二人の自分が傷つけ合うことに堪えねばならない。

 自分の思うがままに生きることは、誰にとっても難しい。
 


は看護観という言葉を好んでいない。
正直に明かすと、反吐が出るほど嫌いである。
看護観とは志操だとしたならば、敬意を持つこともあるだろう。
他者の意見を封じる手段、かつ自己保全のための防壁としての看護観になんのことがあろう。
そのようなくだらない秩序は、周囲の人々をも巻き込んで、すぐ摩耗する。
人の陋劣才質の粗末さによって、志が老化するためかもしれない。

患者に接して、衝撃をもって驚かされたのは、
人間や人生というものが、こういうものかということである。
この驚きは、今も忘れないし、初心というものは、そういうものだと思っている。

だから、初心があれば、いっそ看護観なんぞ、なければないでかまわない。


隈重信に、明治前の肥前藩について話した『大隈伯昔日譚』という速記録がある。 
 
    「一藩の人物をことごとく同一の模型に入れ、ためにテキトウフキの気象を
     うしなわせしめたり」  
  
 
 と、藩士を捉まえていた学問偏重制度に対して回顧している。


 上記のテキトウとは、倜儻と書く。
 倜という文字には「すぐれていて、拘束されないこと」という意味がある。
 儻という文字には「志が大きくてぬきんでていること」という意味がある。
 ようするに「才気があって優れている」という意味である。

 一方、フキは、不羈と書く。
 羈という文字には「馬を制する手綱」という意味がある。
 つまり、不羈とは、「拘束されないこと」である。
 ここから、不羈とは「物事に束縛されないで行動が自由気ままであること」となり、
 また、「才能などが並はずれていて、枠からはみ出すこと」という意味にもなる。

 倜儻不羈とは、「信念と独立心を持ち、安易に人に左右されないこと」としていい。
 


  倜儻不羈



分の一生を、倜儻不羈だけでやっていこうというような野望はない。
そもそも、誰からゆるされもせず、そのように生きることはできない。





 


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